不安に対するブッダの考えとぼくの雑感

 いきなりだが、ぼくは常に理由のない漠然とした不安に駆られている。そこにひとたび具体的な対象が与えられると、不安は恐怖や強迫観念に転換して俄然勢いを増していく。これはぼくのどうしようもない性質なのだと、ある種シニカルな諦観を決め込もうとしていたのだが、同時に俗物の自分には完全に諦めきることはできないだろうとも感じていた。

 そんなこんなで悶えるような日々をずっと過ごしているのだが、最近、不安に対する新しい知見を得たので備忘録代わりに記したいと思う。これが誰かの役に立つかは分からない。自分の役に立つのかさえも…

 

 ブッダの言葉に「不安は妄想である」というものがあるそうだ。原義がどのようなものか、どういう訳し方をしたのか、参照元は…など、気にするときりがないが、まあ、その言葉に対してある程度腑に落ちるところがあった。

妄想の精神医学的な定義をいくつか引用すると…

 1.強固に維持される誤った信念である

 2.不正確な推論に基づく

 3.証拠や反証にかかわらず維持される

 どうだろうか。「事実でない」=「まだ起こってもいない」事柄について「訂正不可能」な不安を感じている、というところにぼくが抱く不安と、妄想の共通点を見出して納得した。(というか、精神医学の方に当てはまったならもうそれ病気か?)

 まあとにかく、こういうことを踏まえて、不安に対する対抗策として今ぼくが興味を抱いているのがvipassana瞑想と呼ばれる瞑想法である。vipassanaとはパーリ語で「観察する」という意味で、vipassana瞑想は自分の認識したことをつぶさに観察する瞑想法である。

 これまで「何もしていない」時間が多いと感じていたが、「何もしていない」ことなどありえないとこの瞑想によって気づいた。つまり、息を吸った・息を吐いた・まばたきをした・今一瞬気が散った・服が体に触れるのを感じた・冷蔵庫が唸っているのに気付いた・メガネが重い・手の筋肉が動いた・キーボードからの圧力を感じた……など。

 今まで不安という妄想の彼方に思考が飛んでいたところを、こうした数え切れないほどの客観的観察によって現実という確固たるものに引き戻されている実感が得られた。これを続けてみれば、何か得るものがあるかもしれないと感じた。覚醒して空中浮揚とかできるようになったらまたブログで報告したいと思います。

 

 追記:書いたものを見直したら予想以上に(なに言ってんだこいつやべえ…)感が強かった。そのうち消すかもしれん。