持続可能な社会に向けた取り組みがビジネスとして成り立つとき

持続可能な社会に向けた取り組みが各社でなされている。かく言う私もそうしたプロジェクトに関わる一員である。私は炭素循環型社会を実現するための研究開発を仕事として行っているが、いつも疑問に思っていることは誰が持続可能な社会を望んでいるのかということである。

社会を最小の単位まで分解すると、それを構成する個々人に行きつく。一人の人間が最も強く望むのは自己の持続可能性である。それというのも平均的な人が基本的に望むこと…食事・睡眠・異性…いわゆる三大欲求である…これらは全て自己保存に関わる欲求である。まずこれらを満たした後、家族や民族の持続可能性を考えることができる。逆を言うと自己の持続可能性が担保されない限り他者の持続可能性を配慮する余裕はない。

持続可能性の欲求は自己から順に身近な集団へと広がってゆく…

個々人の持続可能性が十分に行き渡ったとき始めて社会の、人類の持続可能性が欲求される。主題に戻るが、持続可能な社会がビジネスとして成り立つとき、それは全ての人の明日が、少し先の未来が担保されたときなのだ…

一方で今日、自分の明日を不安に思う人は日に日に増えている…これは感染症の流行による一時的なものなのだろうか?あるいは現代社会の構造が抱える病によるものなのだろうか…?そんな世の中で持続可能な社会に向けたビジネスが成り立つ日は来るのだろうか…

少々悲観的な見方になってしまったが、このビジネスの成立性には希望もある。

社会がこのままであれば少数の富める者と多数の貧しき者の構図は変わらないだろう。富める者は自己の持続可能性を確立しているといえる。富める彼らが人類社会全体を考え、持続可能な社会に向けたビジネスに出資することは大いに考えられる。事実、ビル・ゲイツジェフ・ベゾスなど名の知られた富豪は経営を退き慈善活動に軸足を移している。これは彼らの未来がほぼ完全に保証されているからだ。彼らには他者に、社会に、人類に配慮する余裕がある。そうした人を顧客としたとき、持続可能な社会に向けたビジネスは成立する…

個人としては、誰もが人類の未来を真剣に考えられるような、誰もが少し先の未来が保証されているような社会で、誰もが望む人類の未来のための仕事をしたいものである…。

上で述べた一連のことは自分の中での一種の思い込み・先入観が形になって生まれた怪文書である。これは皆さまの共感ではなく強い反感を望んでいる。

 

 

↑会社のブログ的なやつに投稿しようとして思いとどまった怪文書。なんか英語学習についてのクソ記事が一番上に鎮座していたので恥の上塗りということで別のクソ記事を書いてみた。