鬱1

 4月末くらいから鬱が悪化している。4月の中頃までは色々勉強したりする余裕があったのだが。

 covid-19による生活様式の変化からくるストレスか。あるいは社会人2年目ということで、色々な会議に参加させられるようになり、広大なビジネス空間に放り出され格闘させられているように感じるようになってきたからか。

 昨年からレクサプロという抗うつ剤を飲みながらぼちぼちと低空飛行していたが、最近は抗うつ剤サインバルタというものに変更した。薬の変更が功を奏したのか、4月末は激烈な不安と焦燥+何もしたくなさ、だったのが今は若干の不安と焦燥+何もしたくなさに改善している。

 何もしたくなさ。何もしたくなさがすごい。休日は主に睡眠、食事、ときどきオナニーという感じである。何もしたくないが三大欲求が残っているのが面白い。労働日は、在宅勤務の日は作業に集中できずぼんやりとしている。出勤した日は、会社という環境のためか作業をできている。代わりに帰宅したときひたすら疲労を感じる。

 総合的に見て恵まれた環境にいるとは思うのだが、なぜか鬱になる。

 25年間漫然と積み上げてきた思考のフレームワークがそうさせるのかもしれない。人が何かに不安や自己否定感を感じるとき、それは現実で起こった事象そのもののせいではなく、受け止め方のせいである。

 ある本からの引用だが、例えば留年という事象に対して「一単位足りず留年してしまった。内定も取り消され、またもう一年分授業料を親に払ってもらうのが申し訳ない。もうだめだ」と感じる人もあれば「留年してしまったが、残りの単位は一つだけだ。週5でアルバイトすれば新しい出会いがあるかもしれない。授業料も少しは自分で払えるだろう。内定は取り消されてしまったが、今年は授業が少ないからもっと就職活動に力を入れられるし、去年は入れなかった会社に行けるかも。」と感じる人もあるだろう。

 現実で起こった事象そのものと、自分の受け止め方。事実は変えられないが、受け止め方は十人十色である。人の心は常にゆらゆらとあいまいに移ろっている。現実に動じないような心へと変化させていくこと、それがぼくにとっての成長だと思う。

0.999999...=1

0.999999…=1というそれなりに有名なお話しがある。これが直観に反している云々でちょっとした話題になった経験がある人は結構いるのではないだろうか。一応ぼくが一番わかりやすいなと思った考え方は、この式を以下のように書きなおす方法である。

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上式では0.999...9の後ろに9を一つ書き加える操作がnを一つ増やすことと対応する。

極限についてもっと厳密な議論は色々あるだろうが、ここでは0.999...9という1以下の数の後ろにもう一つ9を加える操作を繰り返すことで"着実に"1に辿り着きつつあるという意味で捉えたい。

ひとまずこれはこれで置いといて。

いきなり話を本題に変えるが、アブラハムの宗教(ユダヤ教キリスト教イスラーム)の"正統派"は一般に「神は完全である。人は神に似せて作られてはいるが不完全である。」と説く。この人と神とを隔てる壁は絶対的なものである。不完全な人間は現世で善行を積み、来たる審判の時に永遠の天国へ行く判決が下ってようやく救済される。それ以外の救いの道はない。

一方ではしかし不完全である人間が完全になりうると説く教えもある。東洋でよく知られたところでいうと「梵我一如」のヴェーダ、「悟り」の仏教などであるが、一方で西洋ではユダヤ教におけるカバラキリスト教神秘主義イスラームスーフィズムなどにそれに近い教義が説かれている。上述のアブラハムの宗教における神と人との隔絶から考えると、こんな思想が現れるのは意外なことだが、勿論これらは半分異端扱いである。

 さて、救済の宗教と違ってこれら目覚めの宗教には現世での目的がある。目覚めの宗教の創始者や高僧は、この世の深奥を見たり、真実に目覚めたり、宇宙の神と対面し合一した者だとされる。しかし、なぜこれらの教えが伝え広められるに至ったのだろうか?現世での目的を遂げたならもうそこで終わりではないのか?

実際経典の中でブッダは「私が悟った真理はあまりに難解すぎて一般人には理解できないだろう。労苦して開いた悟りを、そんな人々に説いて何になろうか?」と詠じたとされる。そこで経典では梵天(神的に偉い人)が現れて「一般人の中にも話が分かるやつがいるかもしれないから法を説いてくれ」とお願いしたことになっている。基本的に合理的なお話しからなる仏典の中で、この非合理的な説明ではぼくは納得できない。

では目覚めた人が目的を遂げた後も生き続けるのはなぜか?

これは先ほど言った0.9999...の...において9を"無限に重ね続ける"ことが完全な1と等価だからではないだろうか。そのことを目覚めた人は悟って、完全な1の喜びと等価に9を重ね続けるのではないだろうか。目覚めた人は、まさに生き続け、その教えを説き続けることで完全な目覚めたる人(1)なのだ。

私はまだ0.9すらほど遠い未熟者だが修練によって9を書き連ねる喜びを味わいたいものである。

 

 

以上、最近読みかけの神学の本に触発されたことでした!

 

 

人生実質クリア論

いつものようにツイッターで適当に発言した人生実質クリア宣言だが、案外ふだん自分の考えていることにしっくりきたような気がするのでまとめる。

ここでいう人生とは一般的な意味でいう人生であり、端的にいうと社会的成功を求めるゲームである。ぼくは意識していなくてもこのゲームに多くを求めすぎる傾向があった。例えば成績、学歴、容姿、女性、就職、収入、役職……これらは社会の中で競争の対象とされている。皆が狙っているからこそ得辛く、価値が高まり、得られたときの快感は大きく、得られなかったときの落胆も大きい。今持っているものや将来当然得られるだろうと期待していたものが失われるのではないかという不安も始末が悪い。

一般的な意味でいう人生は年齢とともに延々とアップデートが続けられるネトゲみたいなものだろう。しかもネトゲのように終わりがない上に、別に楽しいわけでもなく苦しみが多い。ゲームのたとえで言うと、RPGなんかでは最強武器をゲットした時点でクリアとする人もいれば、雑魚武器も全部コンプするまで続ける人もいるだろう。ここでゲームをクリアした人はどうするか。次のゲームをする。ぼくはプレイしていてもあまり益があるとはいえないような人生を「20年生存」でひとまず実質クリアとし、次のゲームをしたいと思う。心が安らぐようなゲームを。何か辛いことがあったら人生を実質クリアしていることを思い出そう。前のゲームなんかにムキになる必要ないぞ。

表現すること

表現する訓練が足りていない。エントリーシートを書いているときぼんやりと思う。

まあ実際のところ、そういった実用的な文章は書けようが書けまいが割とどうでも良いと考えているのだが、素敵な文章で自分の思索をつづっていたりするのを目にすると憧れを感じる。

大学の学部では人文科目も所定の単位数は受講する必要があったのだが、何も考えずただ単位の取りやすそうな科目だけを選んで受講していた(極端なものだとマルバツの試験とか…)。レポートという形で一万字超の文章を書いて何らかのフィードバックを得られる機会などこれから先ほとんど無いだろうし、勿体ない授業の取り方をしていたと今になって思う。

さてここまで286文字。「○○について500文字以内で書きなさい」のような設問がある場合、このように思いついたままにつらつらと文章を並べた後、筆が止まる。

ちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽちんぽ

 

↑みたいに適当に埋めてみて(残りの長さはこんなもんか…)と考えたりする。

 

 

 

恥の上塗り

久々にブログの方を覗いてみるとウンコ記事が堂々と一番上に鎮座していたので、とりあえず何か書いて隠しておくことにした。タイトルの通り結局同じことかもしれないが…

最近は就活の調子がすこぶる悪いものの不思議と精神状態はそこまで悪くない。原始仏教関係の本や聖書なんかをつまみ食いしながら読んでいるためかもしれない。特に原始仏教の方は神秘色が薄く実践哲学といった雰囲気で、処世訓などはとても示唆に富んでいる。時間があれば入門書の次は原典をあたってみたい。

社会というヒエラルキー内での猿山マウンティングバトルに何の意味があるだろう。だから別に就活がうまくいかなかろうが些細なことなのだ。はぁ……

研究の方も全く芳しくない。研究室の雰囲気がゆるふわなので忙殺されて辛いとかいうことは全く無いのだが、うんちテーマのうんち進行状況で進捗報告発表しなければならないのはキツい。毎回、舞台でスベり倒す芸人のような心境になってくる。

「失敗しても諦めず努力し続けた結果最後に身を結んだ」系の美談は巷に溢れているが、その手の話が纏っている挑戦とかチャレンジといった雰囲気は全然無く、ぼくの場合はただただ意味不明にスベり続けているといった感じだ。

宣言:今後は1日8時間だけ研究して後は研究とは関連の無い数学・物理・人文系の勉強とかすることにする。

 

中国雑感

研究の関係で中国に行って発表してきた

東アジアの学生たちが集まっていたのだが、海外勢はみなPh.D.の取得を目指している学生ということもあってか。気合の入った素晴らしいクオリティの発表ばかりだった。ちなみに僕はうんこだった。公開脱糞タイムだった。はあ…。

一方で、日本勢の中でもぼく達と同行したあるドクターの方はガンガン質問やらコミュニケーションやらしていてすげえなあと思った。ホテルではその方と相部屋だったのだが情報技術の進歩とそれらがもたらす僕らの研究分野の未来について熱く語っていただいた。

現地はものすごく発展していて、活気にあふれていた。何枚か写真を撮ったのだが、センスが皆無なせいで活気に溢れている様子を一切伝えられないショボい写真しか撮れてなかった。日本では中国というと色々ととやかく言われがちだが、やはり今の時流に乗って栄えてきているという点は間違いないだろう。学生たちにも街にも圧倒されて帰ってきた。

話がまとまりを欠く……。今回の旅では多量のエネルギーに触れて、自分が生と向き合っていないことへのコンプレックスを大いに刺激された。生に対する根底的な姿勢を改める必要性を感じた。生きながら死なないこと。自分が自分であると認識すること。この命を讃えること。…。

 

真夜中のトロ

人は自分の周りの社会の中で生きているのであって、絶対的な幸福というものは存在しえない。 絶対的な幸福の尺度で生きることができるのは強き者であり…まさに選ばれた聖人と言うべきものである。 偉大な精神を持つ者…ブッダ・キリスト・優れた僧などは皆それができた…孤独であることができ、強者であった。 間違いなく僕の中にはそうしたたもの…絶対的な尺度に基づく孤独な生き方…に対する憧れが存在するのである、、が、 それは単なる幻想なのかもしれない。
今この世界には僕なんかよりももっとずっと不幸な人がいるんだろう。 ただ僕は狭い社会の中でしか生きることができない、周りの人間に自己を制限される弱い人間なんだ。僕は僕が強くないこと…それが悲しい。

深夜にスマートフォンの音声入力で書いた。便利。