0.999999...=1

0.999999…=1というそれなりに有名なお話しがある。これが直観に反している云々でちょっとした話題になった経験がある人は結構いるのではないだろうか。一応ぼくが一番わかりやすいなと思った考え方は、この式を以下のように書きなおす方法である。

f:id:twderecha:20191010214447p:plain

上式では0.999...9の後ろに9を一つ書き加える操作がnを一つ増やすことと対応する。

極限についてもっと厳密な議論は色々あるだろうが、ここでは0.999...9という1以下の数の後ろにもう一つ9を加える操作を繰り返すことで"着実に"1に辿り着きつつあるという意味で捉えたい。

ひとまずこれはこれで置いといて。

いきなり話を本題に変えるが、アブラハムの宗教(ユダヤ教キリスト教イスラーム)の"正統派"は一般に「神は完全である。人は神に似せて作られてはいるが不完全である。」と説く。この人と神とを隔てる壁は絶対的なものである。不完全な人間は現世で善行を積み、来たる審判の時に永遠の天国へ行く判決が下ってようやく救済される。それ以外の救いの道はない。

一方ではしかし不完全である人間が完全になりうると説く教えもある。東洋でよく知られたところでいうと「梵我一如」のヴェーダ、「悟り」の仏教などであるが、一方で西洋ではユダヤ教におけるカバラキリスト教神秘主義イスラームスーフィズムなどにそれに近い教義が説かれている。上述のアブラハムの宗教における神と人との隔絶から考えると、こんな思想が現れるのは意外なことだが、勿論これらは半分異端扱いである。

 さて、救済の宗教と違ってこれら目覚めの宗教には現世での目的がある。目覚めの宗教の創始者や高僧は、この世の深奥を見たり、真実に目覚めたり、宇宙の神と対面し合一した者だとされる。しかし、なぜこれらの教えが伝え広められるに至ったのだろうか?現世での目的を遂げたならもうそこで終わりではないのか?

実際経典の中でブッダは「私が悟った真理はあまりに難解すぎて一般人には理解できないだろう。労苦して開いた悟りを、そんな人々に説いて何になろうか?」と詠じたとされる。そこで経典では梵天(神的に偉い人)が現れて「一般人の中にも話が分かるやつがいるかもしれないから法を説いてくれ」とお願いしたことになっている。基本的に合理的なお話しからなる仏典の中で、この非合理的な説明ではぼくは納得できない。

では目覚めた人が目的を遂げた後も生き続けるのはなぜか?

これは先ほど言った0.9999...の...において9を"無限に重ね続ける"ことが完全な1と等価だからではないだろうか。そのことを目覚めた人は悟って、完全な1の喜びと等価に9を重ね続けるのではないだろうか。目覚めた人は、まさに生き続け、その教えを説き続けることで完全な目覚めたる人(1)なのだ。

私はまだ0.9すらほど遠い未熟者だが修練によって9を書き連ねる喜びを味わいたいものである。

 

 

以上、最近読みかけの神学の本に触発されたことでした!